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卒業生インタビュー vol.11川上 智子
第19期卒業生


2005年にファエンツァ国際陶芸展でグランプリを受賞し、陶芸家として活躍する川上智子さん。一方、多治見市文化工房ギャラリーヴォイスのゼネラルマネージャーとして、数々の展覧会の企画や運営に多忙な日々を過ごしています。3月にアートフェア東京2013 への初出展を終えた川上さんにお話を伺いました。


□アートフェア東京お疲れ様でした。出展されていかがでしたか?

場所が良かったこともありましたし、他のギャラリーのブースとの違いも出せたので、出展して成功だったと思います。内容に関しては、今までやってきたことをそのまま東京に持っていきたいという思いがありました。


□出展するきっかけは何ですか?

多治見のギャラリーだけで展覧会を企画していることに多少限界を感じたということです。 工芸のファンや関係者の中には、ギャラリーヴォイスの活動が広がってきているとは思うのですが、広く美術全般の人達の目にはどうしても触れ難い。やはり国内ではアートフェア東京しかないと思ったのがきっかけです。


□かなり反響があったのではないですか?

そうですね。同業者など美術関係者にみていただき評価をしてもらえましたし、なにより来場した多くの方に興味を持ってもらえたことが大きいです。作品が売れていくということも大事なことですが、そのことだけではなく作品が芸術として評価されていくことを大事にしています。ですから私たちのそういう姿勢がかえって良かったのだと思っています。


アートフェア東京2013での ギャラリーヴォイスの展示ブース

ギャラリーヴォイスでの企画展に向け、 作品の展示をする川上さん



□今回の展示のタイトルに「土から成るかたち」とありますが、このタイトルには強い思いがあるのですか?

あります。やきものには土とその作家だからこそ生まれる造形があると思います。だから彫刻家が土を使って作ることとはちょっと違いますし、長くやきもので制作をしてきた人には、自分と土との関係の中で出来上がる独特な表現があると思います。


□アートフェア東京を終えて今後の展望は何かありますか?

アートフェア東京に出展したことで、海外のアートフェアからのオファーや、国内からもオファーがありました。そういった新たな繋がりが出来たことは、とても大きな成果ですし、情報がより発信し易くなったと思います。 今後の展望として、海外で出展してみたいという気持ちもありますが、次どうするかはまだ考え中です。


□そもそもギャラリーの仕事に関わろうと思ったきっかけは何ですか?

自分が長く作家として活動してきて、作家の思いをしっかり世の中に伝えたいと思ったことです。 実はギャラリーを始めるまでは、自分が作家をし易い環境が持てればいいかなと思っていました。実際はそんな甘いものではないのですが、ただこの仕事は自分にとって非常に充実しているし、やりがいもあり、面白いと思ったんです。自分が作品を作り続けることだけでは見られない世界ですし、自分が作るものって自分の範囲を超えないじゃない。今は陶芸を通してアートや芸術の世界をみていきたいと思っています。


□いつもアクティブに動かれていますが、その様な熱意はどこから来るのでしょうか?

やきものが好き。結局はそこに集約されることかもしれません。 物事が広がっていくことは、思いの強さや、人と人との繋がりだったりしますから。自分がどこを目指して、何を思っているのかという熱が伝わらないと、作家にだって周りの人達にだって本気になってもらえないですよね。


□ギャラリーでは色々な企画展をされていますが、どんな作家に展示をしてもらいたいと考えていますか?

今後を更に見てみたいということが強く感じられるような作家にここで発表してもらえたらと思っています。 若かろうが、年をとっていようが、今を生きている人が、真剣にやきものに向き合って出来る作品には、やきものの造形としての現在性があると思います。そういう作品を扱っていきたいと思います。


"黙 08-02" 2008年 写真:Junichi Maekawa



□川上さんも作家で制作をされているわけですが、やきものを始めたのはどういうきっかけですか?

もともと出身が岐阜県高山市で縄文土器が好きだったんです。小学校4年生のときに図工の時間で、初めてやきものの粘土で形を作ることを体験しました。何の道具も使わずに手と土があれば形が出来て、焼き上げると形がくずれない。とにかく面白くて、それまで退屈だった美術の時間が好きになったんです。その後、高校で進路を考えたときに、やきものの世界に行ってみたいという思いが捨てきれずに自分の中にあったので、高校の美術の先生に教えてもらった意匠研究所に行くことを決めました。


□意匠研究所に入所していかがでしたか?

とにかく面白かったですね。ただ、入ってすぐの1年生は、デザイン製図とかデッサンとかそういう授業が多くて、すぐに土で何かを作らせてもらえたわけではなかったです。しかたなく授業の後や、その頃は休みの日でも研究所に入れたので、そういう時間に土を触っていました。 特に大きい出来事だったのが、1年生の10月に中島晴美先生が意匠研究所に先生としていらっしゃったことです。中島先生は、当時意匠研究所で教えていたうつわのデザインやクラフトとは、違うやきものに対する考え方をお持ちでした


□当時はどのような作品を作っていたのですか?

土笛を作ったり、象嵌をしたり、型起こしをしたり・・・色々と制作する中で自分の中から出てくる形とはなんだろうと考えたんです。そうすると何を作ってもいいものが出来ないんです。 ある時、高山に帰って、昔よく遊んだ河原に行ったら、私好みの丸っこい石がいっぱいあるわけ。それから気に入った石の形の型をとって作品にする方法を始めたんです。今までの作品より、その方がよっぽど綺麗でかっこいいし・・・散々河原には通いましたよ。最後は河原に石膏を持ち込んで、持ち出せないような大きな石まで型を取りました。でもひたすら型を取って作っていくと気付くんです。自分は石そのものの形を取りたかったんではなく、石の存在感に憧れたり、惹かれていたんです。 それから本当に自分の中から出てくる形、土と自分が作り出す形、やきものの何に惹かれてこの世界に入ったのか原点にかえってみようと。どんなにみっともなくても自分が作り出していく形に一度素直になって、一番好きだった手びねりに戻って制作しようと決めたんです。それから改めて作品を作ることってしんどいけど面白いと思いました。


□その後、2005年のファエンツァ国際陶芸展でグランプリを獲るわけですね。

そうですね。当時電話で連絡をもらったときには、地に足が着かないような感覚を味わいました。こんなことが起きるんだというような感覚でした。 でも今から振り返って思うと、大きな賞がもらえたというそれだけのことだったんです。ただその時の一等賞だと言ってもらえたことは、自分にとっては大きな大きな励みになりました。


□作品のタイトルに「黙(だまる)」とつけていますが、独特なタイトルですね?

口を開けているのにね。確かに口を開けていることはものを話しているかのように見えるのだけど、実際は何も話していないこともあるじゃない。うるさいくらいにしゃべっているのに、本当の言いたいことは言わずにその周りのことばかりしゃべっていることもあるし。黙っていても目は口ほどにものを言うということもある。「黙」というタイトルの中にはそういう日本的な部分も込められているんです。


□制作を長く続ける原動力は何ですか?

より良いものを作りたいという思い。作り続けること、関わり続けるということですね。 それは仲間や環境を作っていくことでもあります。ただ、それは持とうとしないと持てないものですし、多少何かに根ざすということも大事かもしれない。 私の人生のモットーは関わる時はとことん関わる。そういうことが積み重なって次のステージに行けるのではないかと思います。


□これからやきものを志す人に何か伝えたいことはありますか?

自分の思いや感性を大切に、何であれ自分にしか出来ないものを目指すことが大事なのではないかな。特に陶芸とか工芸は、技術も伴ってこないと表現しきれないことが多いですから、自分の思いと意識と技術的なことがふっとマッチしたときに、その人らしい魅力的なものが出来上がるような気がします。ただそうであるが故に、技術や技法、やきものの雰囲気にあぐらをかいただけの作品も出来てしまうという落とし穴もあります。 うつわでも、表現としての造形作品でも、なぜ作るのかを常に考え、自分が土で作ることの必然性を見つけ出していかないと、結局流行や周りに流されていってしまうような、使い捨てにされてしまうような気がしますね。


(2013年5月取材)