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卒業生インタビュー vol.09酒井 博司
第26期卒業生


土岐市に生まれ日本工芸会でも活躍する陶芸家の酒井博司さん。 固定観念にとらわれない自由な発想から、独自の志野を追求し制作を続けています。 多治見市文化工房ギャラリーヴォイスでの個展が始まったばかりの酒井さんに、お話を伺いました。


□この度は個展開催おめでとうございます。 地元でのこのような展覧会は初めてですか?

こんなに広い会場で個展というのは初めてです。私達のような伝統工芸の仕事というと、デパートの美術画廊が多いので、なかなかイメージがわかなくて。とにかく大きい作品を期日までに一生懸命作りましたね。


□全部新作だとお聞きしましたが。

去年頃から焼き方を少し変えて、梅皮花(かいらぎ)※ の入り方が変わったので、出来れば全て新しい作品を見せたいと思いました。 よく見てもらうと、以前の作品とヒビも全然違うので。 始めた最初の頃は梅皮花がなかなか出なくて、焼いては失敗の繰り返しでした。志野なので3日程かけて焼き、冷まして、窯出しして、1週間に大体1窯のペースで、年間50窯を7年間続けました。今でも色々と試行錯誤はしていますよ。


□普段はどのようなペースで制作をされているのですか?

家業で量産の陶器を造っているので、作品作りと家業と半々くらいの割合かな。作品制作が忙しい時には、家業は家内が頑張ってくれますので。


□作品を作れるのも奥さんのお陰ですね。

もちろん家内のお陰。でないと、こんな風に遊ばせてもらえないよね(笑)。


藍色志野花器( 2012)
写真:Tatsuo Hayashi


制作中の酒井さん


□やきものを始めたのは家業を継ぐためですか?

そうです。もともと作家になるつもりはなくて、家業を継ぐためにどこかで修行をしようと思っていました。
修行先を探していた時に、ちょうど父の知人に加藤孝造先生を紹介していただけることになったのです。当時、大学4年生だったのですが、初めて先生の展覧会に行き、作品を見て衝撃を受けましたね。最初は、ただただ先生の作品への憧れだけでした。先生に「弟子入りさせてください。」と言ったら、「まずは意匠研でやきものの勉強をしてから来なさい。」と言われまして、その時初めて意匠研という存在を知りました。


□意匠研に入ってからはいかがでしたか?

家業は機械での量産なので、土練りも出来なかったし、轆轤なんて見たことも触ったこともなかったです。色々な課題が出るので、何とかこなしながら過ごしていました。
授業では、実際にプロの技術も見せてもらえたので、その技術には感動しましたね。大物の轆轤も中島晴美先生に初めて見せていただいて、その轆轤が自分の中では基礎になっています。
意匠研での2年間があったから、ここまでやきものを長く続けられたように思いますね。


□轆轤へのこだわりはその頃の影響が強いのでしょうか?

そうかもしれないですね。それは形ということではなく、技術的なものかもしれないですけど。少ない土で、少しでもたくさん伸ばして、大きなものを作るということが、轆轤に関しては、ずっとこだわってきた部分です。


□現在、意匠研で大物轆轤の授業をしていただいていますが、そのことは研究生に伝えたい部分でもありますか?

轆轤の一番大事な技術というのは、土を伸ばすことだと思っています。轆轤の技術を通して土の感触を感じることが自分の作品作りに繋がっていますから、素材選びと同じくらいそういう技法も大事だと思っています。ですから毎年フラフラになりながら頑張っていますよ(笑)。


□その後、意匠研を卒業してすぐ加藤孝造先生に弟子入りされたのですか?

そうです。もともと自分は作家になるつもりは無くて、最終的には家業を継げばいいというつもりで弟子入りしていて・・・、でも実際は弟子って厳しいでしょ(笑)。弟子入りしたから作品が出来るというわけでもないし、その厳しさに負けて・・・。当時はまだ産業も忙しい時代でしたから、家業に入ったわけです。


□なぜ作家活動をすることになったのですか?

中島晴美先生に「展覧会に出品しないか?」と誘われたのがきっかけです。当時はただの忘年会の宴会要員だったのですが、それがきっかけで制作した志野の作品を朝日陶芸展に出品したら入選してしまったのですね。それで作家になれるかもしれないと思ったのです。


□最初から志野だったのですね。

加藤孝造先生の作品を見た時の衝撃が大きかったですから。 ただ、初めから高い志を持って制作していたわけではなくて、自分らしい志野、とにかく青い志野で恥ずかしくないものを作りたいという気持ちでした。桃山の志野のイメージで同じように青い志野を作っても、とにかく気持ち悪い。一生懸命続けているうちに、だんだん形や、表面の梅皮花が自分独自のものになっていったので・・・なにしろ必死ですよ。


□酒井さんの志野には緊張感がありますよね。

やはり鈍い形では青に合わないと思います。土が土なので普通に作れば緊張感は出ないし、普通に志野を焼いても緊張感は出ない。そんな中で何とか形も青に合うものにと、一つ一つ問題を潰していくというような制作でした。
あれもこれもやらなければいけないという中で、少しずつ良くなっていったという感じです。悪いものが出来たり良いものが出来たりする中で、技術も知識も身に付いたので。
でも一番大きいのは、周りの人たちに青い志野が認識してもらえるようになったことかな。


酒井博司展 多治見市文化工房 ギャラリーヴォイス (2012)


□現在は日本工芸会の正会員でいらっしゃいますが、青い志野を認識してもらうにも苦労されたとか。

伝統工芸展に1回も入選できず、9年間落ちたからね。当時は、伝統工芸展なんて一生入選できないと思ったし、正会員なんてとても無理だと思いました。 作品が常識の範囲内ではなかったですし、技術のある作品ばかりが入選していたので、そういう点が見劣りしていたのだと思います。
今改めて思うことは、色々な価値観がある中で、何を表現したくてものを作っているのか、また、それが作品に表現されているかどうかが、作品の良し悪しだと感じています。良い作品というものは、きっと色々な時代を経て、色々な価値観の中で、変わらず評価されていく作品なのだと思いますね。


□酒井さんの作品には現代的な印象を受けますが、何か意識していることはありますか?

なるべく知識を入れない、古いものを見ない、影響されない様にすることかな。あまり古いものが好きではないし、勉強しなかったことが、セオリーを気にしなくて済んだ気がします。 常識にとらわれずに、自分なりのものを作っていくこと。それが新しいものになっていくように思います。


□最後に、これからやきものを目指す人達に伝えたいことはありますか?

この業界はサバイバルゲームで、辞めたら負けというところがあるので、続けられる環境や支えてくれる仲間が、長い活動に繋がるように思います。
少しずつでも決めただけやっていく。長続きするような環境を作れるように、作品作りくらい努力する。あとは、デザイナーでも作家でも中途半端は駄目。デザイナーならデザイナーの、作家には作家の勉強ややり方がありますから。私の場合は家業があって、デザイン的な仕事もするけど、それは作品とは切り離します。
自分の思いが100%出たものが自分の作品で、誰かの言うこと聞いたらそれは自分の作品ではなくなってしまう。作品作りは自由に、評価されることに媚びずにやらないとね。


※梅皮花(かいらぎ):焼成時の素地と釉との収縮率の違いから生じる釉薬の縮れ。


(2012年10月取材)